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レディメイド  これまでのまとめ。

アートは、どんな見方が正しいとか、こう見るべきだという決まりはありません。
自由に思考を働かせ、自分にとって希望の持てる方に見るのがいいでしょう。
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                         こども心(再生)   ドロ-イング    2008


松尾芭蕉の句、「松嶋やああ松嶋や松嶋や」
この句がパクリだったとか、既成の句を引用したとか、それはもうどうでもよくて、
この上ない景色と感じた、何ものにもたとえられない感動。
松嶋の地そのまんまを詠んだのは、あまりに有名ですね。

作家のイメージを押し付けずに、鑑賞者は「自分の思うままに振る舞う心。気ままな考え。」で自由に観覧する。
ということを、デュシャンは薦めてくれたのでしょう。
そこで、芸術が完成するのですね。

現代美術を予見したデュシャンは、芸術表現にふれる鑑賞者の立場を重視し、創造行為は鑑賞者のなかで完結するのだと強調しました。 鑑賞者の側にこそ、かつての芸術にも科学・技術の見方にも縛られない、個人のものの見方の世界が広がらねば、せっかくの「新たな思想」も意味をなしません。

「泉」は既成の美意識に対する異和として置かれています。デュシャンが「本当の公衆」に期待したのは、その異和をたどること、既成の見方を離れ自らの心のうちの感情や概念化の動きをたどりなおすことです。 彼は鑑賞者のうちに誘発されるその行為こそが新たな芸術表現の姿だと主張したのです。

20世紀アメリカ現代美術作家論「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より


作家が手を加えてない既成のもの。
それは単体では、何の性格も気質もないものとします。
しかし、作家や鑑賞者が目をつけたところで、そこに性格や気質が宿るのです。

作家の性格や気質を持たないものを展示することによって、それは見る人の鏡になりうると、考えます。
鑑賞者自身が自分の思考パターンを知る(自己を知る)ことで、芸術として成立するのでは?

また、デュシャンは、従来の巨匠があつかってきた題材、手法で似たようなことをするのでも芸術と呼ぶのなら、
量産されたどこにでもある便器を、芸術だ!ということと変わりがない。
と、これまでの美意識を信じている芸術界に皮肉ったのです。

たぶんデュシャンは、鉛管屋のショウウインドウ越しに便器の声を聞いたのでしょう。
「オレは何のために生まれてきたのだ。」 人の排泄物を受け止めるだけなのか?
「もしこれが、一番そぐわない場所、つまり美術館で、誇らしげにスポットライトを浴びていたとしたら、人の目にはどう映るだろう。」
デュシャンはいたずらっぽく、人の反応を観察しようとしたのではないでしょうか。

デュシャンは、人々が持つ衛生観念から、便器のイメージのことを重々承知でインスタレーションにしたのでしょうね。
                                                                            以上は、これまでの自分の記事からの抜き出しです。

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by mume107 | 2008-05-25 09:42 | アート